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照射技術(RADIATION ENGINEERING):食品に放射線を照射するためのさまざまな手法

照射技術


発表場所 : 食品照射、vol.18、43−45.
著者名 : 亀山 研二
著者所属機関名 : 士幌町農業協同組合アイソトープ照射センター
発行年月日 : 1983年



士幌プラントの10年を振り返って−研究と実用の狭間に−


 士幌が”照射じゃがいも”を世に供給し始めて10年がたった。

 振り返ってみると、順調な繰り返しによる歳月ではなかっただけに本当に長く感ずる10年である。

 10年前、食品照射の黎明期ともいうべき時期には、指定7品目の研究も着々と進み、じゃがいもに続いて玉ねぎもすぐ実用化されると思われ、あちこちに照射センターが建設されるのも夢ではないと思われた。

 しかし、その後のオイルショック、低成長時代を迎え、照射食品の反対運動、玉ねぎの品種改良、貯蔵技術の進歩、又最近では円高基調からくる米国産じゃがいも一次加工品の大量輸入、農産物自由化要求、補助金削減等々の問題から、食品照射も当初予期した様な発展もないまゝ、士幌は10年の孤独な歩みを続けて来た。

 最近になって、海外では例のWHOの安全宣言以降、急速に実用化の機運が盛り上がって来ていると聞いているが、はたして順調に行ってくれるだろうか?

 研究開発されたものが実用化されるという事はすばらしいことではあるが、現実には大変なこと、特に人の口に入る食品照射ではことさらと思うからである。

 良く研究サイドの人々は技術的にメドがつけばすぐに実用化されそうな錯覚に陥りがちであるが、現実には研究サイドの感覚では知り得ない周到な準備と発想の転換がそこには必要と思われ、これをうまく埋めないことには成功はおぼつかないと思われる。

 しかしながら、受入側では新しい技術に関して研究サイドに寄りかかる事が多いだけに、こうした点が案外見過されている事が多々あるように思われる。

 そこで、立場の違いと言ってしまえばそれまでだが、この辺の事情の違いについて10年間を振り返りつつ述べて見たいと思う。

 良く食品照射に携わった人達から、士幌は食品照射の実用化に成功している唯一の例として紹介されている。

 しかし、これは誤まりとは言わないまでも正しくない。正確には技術的には成功したが、営業的にはいまだに悪戦苦闘中と表現した方が良いと思われる。

 要するに、卑近な言い方をすれば、まだ安定的に儲かるまでに至っていないということである。

 企業サイドから見て”儲かるか、儲からないか?”という評価は厳しい成功への第1条件である。採算を度外視して実用化に踏み切るなどということは現実の世界では全く有り得ぬことである。

 しかし、士幌は持ちこたえて来ている。それはなぜかといえば、士幌は照射プラントだけでの採算性といった単純なとらえ方を計画の段階からしていないからである。

 昭和41年頃、カナダにじゃがいもの照射プラントがあった。これは民間の照射専門の会社が農家からじゃがいもを買い、照射して、これをより高く売ろうとするものだった。しかし、この会社はあえなく一年で倒産してしまった。運悪く出荷時期にじゃがいもが大暴落してしまったからだと聞く。照射効率を上げるために、照射の専用容器を使い、じゃがいもをこれに入れ替えて照射したため、いもに傷がつき、多くの腐敗も発生したという話である。

 この事例は実用化ということを考える上で貴重な教訓を与えてくれる。

 10年前、士幌は照射プラントだけを作ったのではなかった。従来のやり方を無理なく発展させ、澱粉工場に引き続き、ポテトチップ工場、冷凍食品工場、貯蔵庫群、青果用じゃがいもの出荷プラント等々の設備を一貫した方針の元で作っている。しかも、これらの設備は補助金を導入し、5農協の協同運営といった形で進められ、そして、もちろん流通関係は全農、ホクレン等の系統を通じた従来のやり方である。

 照射プラントはこれらの強力な土台の上に築かれた。つまり、食品工場の年間操業、雇用機会の増加による過疎化防止、出荷調整、取扱量の増大、作付面積の拡大といった面で、これらの設備の機能と有機的に結びつき、お互い持ちつ持たれつの関係の中で有形・無形のメリットを求める、といった考え方で位置づけられたのである。

 これが士幌が成功とは言わないまでも、現在まで持ちこたえている秘密である。

 つまり、実用化をめざすには、カナダのような一方向からだけの見方ではなく、より総合的、マルチ的な見方が必要なのである。

 さて振り返って見れば、昭和52年に起った照射じゃがいものボイコット騒動とは一体何だったのだろうか?

 あやしげな集団がマスコミと一体になって、あたり一面を散々けちらかし通り過ぎて行った。

 ここに彼らのやり方を端的に示す興味深い発言がある「……日本のマスコミというのは、客観的事実のみを報道する仕組みになっている。記者が現地にやって来て、取材して、それに反対しようと賛成しようと記事にならない。しかし、市民の何人かが”反対する会”を作り、記者会見をやって”反対である”と発言すれば、それは客観的事実であるから報道される。そういう仕組になっている。一方、お役所というのは、新聞・テレビに載らないことは何が起っていようと事実とは認めない。活字になった途端に事実を認める。それが行政の仕組みなのである……。だから我々は常にネタを提供しなければならない。ネタを提供すれば、それが”世論”になり、行政を動かしてしまう。社会党も共産党も日本を動かしたことはないが、市民運動は日本を変えて行くことができるのである。我々にとって、人数は問題ではない……。」 つまり、我々はこうした彼らのやり方に完全に乗せられたのである。純心で人をだますことを知らない農民や研究者達はうろたえ、そして、これを真正直に受けとめ正攻法で闘った。しかし、マスコミ等で肝心な安全性の論議などをまともに取り上げてくれたのはわずかばかりであった。大部分は、ただ、人の恐怖憾をいたずらにあおるようなセンセーショナルな報道ばかりを流した。

 口ではいろいろ言うが、あやしげな団体もマスコミも、所詮、社会主義などとはおよそかけ離れた、そうした生活集団にすぎないのである。

 我々はもっとしたたかにならなければならない。最近になって、私はこんな話を聞いた。

 戦時下の野戦病院では負傷兵に薬を与える時、「この薬は苦いけれど、お前の体にいいから我慢して飲んでみろ」と言って薬を与えると、ほとんど飲まないという。しかし、言い方を変えて、「この薬は高価な物でお前にやるのはもったいないが、重傷だから、仕方がない少し分けてやる」と言って与えると、その薬を一気に飲み乾したあげく「もっとくれ」と言うことである。

 同じ物を与える場合にも人間の心理を巧みにつけば不可能も可能になるのである。

 私はこの話を聞いた時、自分の今までのやり方が間違いだったと悟った。つまり”照射じゃがいも”を前面に掲げて、その安全性なり効用なりを学者・研究者気分よろしくとうとうと説く、いわゆる正攻法といったやり方ではダメなのである。この場合、聞いている時は理解してくれるかも知れないが、実際には食べてくれないだろう。

 考えて見れば、特別に興味を持つ人は別にして、大多数の人にとって、芽が止まるメカニズムや、どの様にして芽を止めるかといった事はあまり興味のないことであって、要は芽が出ないという効用こそが自分達の生活に必要なことなのである。

 そうした発想からすれば”照射じゃがいも”ではいかにもまずい。照射―放射能―原爆―白血病といった連想がすぐに出来上がってしまう。あげくのはてに照射の意味もわからずに買った人が家庭菜園を始め、芽が出てこないと言ってクレームの手紙をよこす始末である。

 もともと照射じゃがいもという表現は非照射じゃがいもとの比較のためにつけられた研究者用語である。物を売る場合、表現の仕方が大事で、これによって売れる物も売れなくなってしまう。特長を生かすべきである。

 そこで、以来、”照射じゃがいも”は”芽どめじゃがいも”に改名することとした。同時に”芽どめじゃがいも”の安売りは絶対しない、イヤ、むしろ、厳選されたじゃがいもを芽止めし、他にまねのできない銘柄品としなければならないと思った。発想の転換が必要だったのである。

 原研を辞して、この仕事に飛び込んで10年、この10年は研究と実用の峡間に生きた10年であった様な気がする。今後、この”芽どめじゃが”がどのような命運をたどるのか、神のみぞ知るところであるが、いずれにしても一番大切なのは、事故を起さないことである、と心を引き締める昨今である。

(昭和58年7月30受理)




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