前報において、γ線照射ソバ粉より製造したそば切りは、味(狭義の味)、テクスチャーなどの官能的所見において、非照射ソバ粉より製造したそば切りと比較して、遜色のない製品であることが報告された。
一方、柴田ら〔2〕は、照射小麦の製麺適性について、殺虫線量(〜0.1Mrad)程度であっても、γ線を照射した小麦粉の製麺適性は低下し、その程度は照射線量によく比例したと報告している。
小麦粉に放射線照射を行った場合の品質に及ぼす影響については、ほかにもかなりの研究がなされている。それらの報告によると、澱粉に対する影響が大きく、たんぱく質、脂質、アミラーゼ活性、等への影響は小さいとされている〔3〕〔4〕。
小麦粉のみを主原料とするうどんと、ソバ粉と小麦粉を主原料とするそばとでは、形態は類似していても、求められるテクスチャーなどの品質要件は異なる。
そこで、本報ではソバ粉に対する放射線照射の有用性をさらに明らかにするため、ソバ粉のビスコグラフ粘度、水溶性たんぱく質、及び香気成分、等に対するγ線照射の影響について検討したので報告する。
実験材料
前報におけるソバ粉のうち、A,B,Cの3種類を使用した〔1〕。
照射方法
前報と同様に0.05〜1Mradの線量を照射した〔1〕。
ビスコグラフ
前報と同様にソバ粉濃度9%(絶乾物基準)の水懸濁液について測定した〔1〕。
水溶性たんぱく質、及び水溶性全糖
ソバ粉2gに水50mlを加え、30分振とう抽出後、遠心分離して得た上澄について、Folin比色法により水溶性たんぱく質(WSP)を定量し、試料1gあたりのチロシン当量(mg)として表わした〔5〕。水溶性全糖(WSS)は、この上澄液を希釈し、フェノール・硫酸法により定量し、グルコース当量(mg)として表わした〔6〕。
香気成分
ガスクロマトグラフ(GC)による香気成分の分析は、Tenax−GC樹脂によるヘッドスぺースガス濃縮分離法によった〔7〕。すなわち、試料50gをトラップ管に入れ、40℃恒温水槽中で窒素ガスを通しヘッドスペースガス2lをTenax−GCカラムに吸着させた。次に、このカラムを加熱導入装置(島津FLS−3型)に入れ、GCに導入した。濃縮装置の概略を図1に示す。
GCは島津GC−7AGを使用し、検出器はFID、キャリアガス窒素ガス(0.86ml/min)を用いた。カラムは0.28mm×30mのPEG20MをコートしたFFSキャピラリーカラムを用いた。
カラム温度は50℃から130℃まで、毎分3℃で昇温した。
1.ビスコグラフ
ソバ粉Aの各線量照射後のビスコグラムを図2に示す。照射線量の増加の伴って粘土は減少した。3種類のソバ粉のビスコグラフの最高粘度(MV)及び最高粘度時の温度(MVT)の、照射線量による変化を図3に示す。MVは、0.1Mrad程度の低線量においても、非照射ソバ粉の粘度の45〜64%にまで減少していた。MVTも、照射線量の増加に伴って低下する傾向が認められた。
2.水溶性たんぱく質及び水溶性全糖
水溶性たんぱく質(WSP)と水溶性全糖(WSS)の照射線量による変化を図4に示す。
WSPは、1Mradの照射まで、ほとんど変化が認められなかった。WSSは、線量の増加とともに若干増加する傾向が認められた。
3.香気成分
3種類のソバ粉のγ線照射後7〜10日経過におけるガスクロマトグラムを図5−1〜図5−3に示す。いずれのソバ粉も、線量が増加するにつれて特に低沸点域にピークが高くなる成分が認められた。また、変化の大きなピークは、粉の種類によっても異なっていた。γ線処理したソバ粉には、官能的にいわゆる照射臭が検知され、線量が増加するにつれて、その程度も大きくなった。官能的評価とGCパターンの変化は良く一致していた。しかし、ソバ粉の照射臭の成分を同定するまでには至らなかった。
玄そば(そば種実)に0.5Mradのγ線照射を行い、これをロール製粉機で製粉したソバ粉の香気成分のガスクロマトグラムを図6に示す。ソバ粉の状態でγ線照射を行ったものと異なり、官能的に照射臭は検知されなかった。そして、そのガスクロマトグラムは、非照射ソバ粉に近似したパターンを示した。
ビスコグラフ粘度
ソバ粉のビスコグラフ粘度が、γ線照射によって低下したことは、小麦粉などの場合と同様、主として澱粉の性状に変化が起きたものと推定される。ソバ粉の場合は、最高粘度(MV)の低下とともに最高粘度時の温度(MVT)も低下した。小麦粉の場合には、0.1MradまではMVTに変化は認められないという報告〔2〕,〔8〕もあるが、今回の実験は1Mradまでの比較的高線量であったことにより、MVTの変化も現われたと考えられる。
うどん用の小麦粉のビスコグラフ粘度は、概して高い方が良好とされている〔9〕。これは、うどんをゆでた際に糊化する小麦粉澱粉の粘度が高いほど、うどんのテクチャーとして、俗に言う、もちもちとしたコシのあるめんとなり、それがうどんとして好まれるからである。
一方、そばの場合には、うどんとは異なり、粘りの小さい、もろさのある食感がそば(特に手打ちそば)として好ましい。従って、ソバ粉のビスコグラフ粘度が低いことが、必ずしもそばの食感として都合の悪いこととは考えられない。この点については、今後さらに検討し、
水溶性たんぱく質及び水溶性全糖
ソバ粉は水溶性たんぱく質(WSP)を多く含み(通常、全たんぱく質中の60%以上)、しかも、そのWSP水溶液は粘りがあるため、そば製造上重要な役割を果しているとされている〔10〕〜〔12〕。
1Mradまでのγ線照射において、WSP含量に変化が認められなかったことから、照射ソバ粉の製麺性が特に劣ることはないと考えられる。
ソバ粉の水溶性全糖(WSS)がγ線照射によって増加する傾向が認められた。このことは、柴田らが、小麦粉のマルトース価がγ線照射によって増加したとする報告〔2〕と符合していた。
香り
そばは、わずかながらもそば特有のフレーバーを持つ。それ故、フレーバーは官能評価の際に重要視される項目の一つである。今回の実験結果では、γ線照射ソバ粉にいわゆる照射臭が官能的に検知され、ガスクロマトグラムにも対応した変化が現われた。しかし、今回は照射ソバ粉を用いたゆでそばの官能評価は行わなかったので、そばにした場合の評価は不明である。照射小麦粉を用いたうどんの場合は、0.1Mradまでの照射では照射による匂いの評価の低下はわずかであった、と柴田らは報告している〔2〕。一方、田中らは、照射小麦粉の製パン性を調べ、照射直後では20Kradの低線量でもoff−flavorを感じたが、3ヶ月貯蔵後では、50,100Kradでわずかに認められる程度にoff−flavorが軽減したと報告している〔8〕。比較的高線量を照射したソバ粉の場合も、貯蔵によってある程度の照射臭の低減は可能と思われる。しかし、ソバ粉は熟成を必要とする小麦粉と異なり、製粉後は比較的速やかに使用した方が良とされているので(一般的には、製粉後7〜10日以内で消費されている)、長期保存は現実的でないと考えられる。
ソバ粉の種類によって、照射後のガスクロマトグラムの変化状況が異なったことは、いわゆる照射臭といっても、その成分的な内訳は種々多様であることを示していると思われる。
また、玄ソバの状態で照射を行った後、製粉したソバ粉のフレーバーが、非照射ソバ粉のフレーバーとほとんど差異がなかった。このことは、そばのフレーバーの保持という関点からはこの照射方法が優れていると思われる。ソバ粉のいわゆる照射臭が玄そばの段階で抑制されるのは、照射による酸化劣化の進行が異なるためと思われる。あるいは、種皮(殻)に照射臭を抑制する何らかの因子が含まれているのかもしれない。そば(ソバ粉)のフレーバーとγ線照射とに関連するであろう諸要因について、今後の研究課題としたい。
ソバ粉に0.05〜1Mradのγ線照射を行い、そのソバ粉の製麺適性の基礎として、ビスコグラム、水溶性たんぱく質(WSP)、及び香りに及ぼすγ線の影響を検討し、次の結果を得た。
1)照射ソバ粉のビスコグラフ粘度は、照射線量の増加に伴って低下した。しかし、ビスコグラフ粘度の高低が、必ずしもそばの食味評価につながるものでないことを考察した。
2)ソバ粉のWSP含量は、照射によってほとんど変化しなかった。従って、γ線照射がそばの製麺性に与える影響は、むしろ小さいと推測された。
3)照射ソバ粉は、線量の増加に伴っていわゆる照射臭が検知され、増大した。この傾向はヘッドスペースガス分析によるガスクロマトグラムの変化と対応していた。一方、玄そば(そば種実)の段階でγ線照射を行った後、製粉したソバ粉には照射臭がほとんど認められず、ガスクロマトグラムも非照射ソバ粉のものと近似していた。
本研究の実施について、温かいご理解とご指導を賜った日本原子力研究所高崎研究所長 武久正昭博士、同所開発部長 田村直幸博士、ほか関係所員に深甚の謝意を表する。
また、本研究の意義を理解し、支援された長野県下の「そば工業技術研究会」会員諸氏にも謝意を表する。
この報告の要旨は、第21回日本食品照射研究協義会大会(1985)において発表した。
〔1〕松橋鉄治郎・伊藤 均・大日方洋・村松信之・小原忠彦・斉藤 実
:食品照射、(投稿中)
〔2〕柴田茂久・今井 徹・豊島英親・梅田圭司・石間紀男
:日食工誌、21,161(1974).
〔3〕日本アイソトープ協会成果報告書(1970).
〔4〕日本アイソトープ協会成果報告書(1971).
〔5〕松橋鉄治郎・島田俊夫・酒井武一・黒河内邦夫
:長野食工試研報、4,109.(1976).
〔6〕近藤君夫・大日方洋・松橋鉄治郎:長野食工試研報、13,154
(1985).
〔7〕T.Tsugita,T.Imai,Y.Don,T.Kurata,
H.Kato,:Agric.Biol.Chem.,43,
1351(1979).
〔8〕田中康夫・小柳妙子・豊島英親・梅田圭司・佐藤友太郎
:日食工誌、18,400(1971).
〔9〕長井 亘:うどんの技術、第2版(食品出版社、東京)、
P.63(1980).
〔10〕曽田武富・加藤潤子・桐淵滋雄・青木宏:日食工誌、28,297
(1981).
〔11〕松橋鉄治郎・小原忠彦・村松信之・大日方洋・黒河内邦夫
:ニューフード・インダストリー、27(5),27(1985).
〔12〕柴田茂久:そばの製麺の科学、柴田書店編そばの基本技術1,
P.112(1983).
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